文章変換「屠殺」...。命と宗教。
上の写真は俗に言う家蜘蛛、家ぐもです。写真はアップで撮ってあるので大きい蜘蛛のように見えます。
脚の長さはかなりのモノです。脚が長いわりに胴体が小さいのが特徴だと思います。
本体胴体の大きさは直径5㍉にも満たないくらいなのですが脚が長いので動くと目立ちます。
この蜘蛛の生態はよく分かりません。餌を捕獲したところを目撃した事もありません。
家の中に限らず蜘蛛があの糸を張り巡らせている所を見ると飛んで来た昆虫(蛾とか蠅とか)を捕えてると考えられます。
つまり肉食という事のようですが...。
ライオンなどの哺乳類に限らず昆虫にも肉食系と草食系があるんですね。
肉食系女子とか草食系男子などと近年の男女の性向を表す言葉の中にある「肉食系」と言う場合の肉食文化は西欧文化の影響だと言われています。
そんな肉食系のグルメでよく言われる言葉に焼肉には人の気持ちに幸せ感を与える最高の食べ物だという人がいます。
肉食をする事は人の気持ちを最高の幸福感にさせる、、、という栄養学的見識ってどこから来るのでしょうか?。
人が日常的に肉食をするには家畜を「業」にする人がいないとそうそう普通に食べる事は出来ません。
家畜とはどんな動物でしょうか?
牛、豚,鶏がメインの動物ですが人は色々な動物を飼っています。
特に鶏に限って言うと日本ではご存知の通りのケージ飼いが当たり前だと思います。放し飼いが無いわけではないが全体で見ると放し飼いは少数だという事です。
いずれにしても鶏を飼う事は朝に夕なに鶏たちに餌を与えて立派なたまごを産んでもらうために飼われているのが多いようです。
ところがブロイラーと言われる鶏たちはケージ飼いにしろ、放し飼いにしろ人がその鶏たちの肉を食べるために育てています。
この場合鶏を引き合いに出していますが飼い方は違ってもそれらの肉を食べるための飼育です。「屠殺」が最終目的なのです。
お肉を市販するためにこれらの動物を解体します。その行為を「トサツ」という言葉で表します。その「トサツ」をキーボードで叩いてもその漢字が表示されません。
日本語変換のプログラマー達がその言葉を知らないのではないかと考えてしまいます。
気になるので色々調べて見ると在りました。屠る(ほふる)という読みでの漢字なようです。
屠る(ほふる)と殺を合わせてトサツと読むはずですが漢字には変換されません。
仕方がないので屠る、殺と入力した後で「る」と「、」を削除すると屠殺..トサツという漢字が出来上がります。
日本語のプログラマーたちがそのような事を知らないとは思えません。
なのにどうしてこういう事になっているのでしょうか?
本来草食系の和食文化の伝統を受け継いだ人達には肉食の象徴である「屠殺」に対して潜在的な抵抗を感じているのではないかと思えるのです。
戦後70年の日本では色々な面で日本文化が敬遠されてきました。
これは戦後に限らず明治クーデター政権以来の日本文化の傾向とも思えます。
「散切りアタマを叩いて見れば文明開化の音がする」などと詠われるなど明治以前には文明が無かったかのように言われるのはどうかと思います。
ハナシが逸れてしまいました。
家畜を人が食べるために殺す行為「屠殺」という表現があります。鳥インフルエンザが流行し始めると「殺」処分という呼び方がマスコミで報じられます。
「殺処分」と「屠殺」とは全く意味が違います。「殺」処分の場合は皆殺し、なのです。処分なので食用には出来ません、しません。
かつて「狂牛病」騒動の時にもこうした飼育していた牛たちを皆殺しにする「殺」処分をしていました。
仮に人間がそうした病気になっても「殺」処分は絶対しないのです。家畜だからこその「殺」処分でした。
人が人を殺せば殺人という事になり重大な犯罪です。
国家と国家の争いで起きる殺人に「戦争」があります。この場合は犯罪にはなりません。他国の人間を殺しても国家の名誉になるのです。そうした戦争で命を落とし犬死させられても英霊などとおだてられるだけなのです。
犬死させられたとは言っても、一つきりの日本の兵士の事は英霊などと祀って鎮魂の意思を曲がりなりにも表しています(戦争神社と揶揄される靖国神社などはその代表です)
しかし、中国などの犠牲者たちへの鎮魂の祈りに政治家が出かけたというハナシは聞いた事がありません。多くの犠牲者を生み出した事を認めて謝罪をしていてもその犠牲者の方々への鎮魂の祈りをしていないのです。
鎮魂の祈りをしないという事は数百万という犠牲者を生み出した事実を認めていない事と同じなのだと思います。だから何度口先だけの謝罪をしても中国や韓国は許さないのだと思います。
人が飼育している家畜を殺しても問題にする人はいません(普通は...)。自然の海洋に棲んでいる鯨を獲るのは野生動物保護に反する行為だと非難する人間グループがいます。
日本には食事の時のあいさつに「いただきます」という言葉があります。
アメリカなどでは「神様に感謝します、アーメン」などという挨拶の言葉があるようですが。
動物は自分以外の生き物を食べ続けていないと自分が生きられません。つまり、他の生き物の命を「いただいて」いるのです。
稲のタネになるお米にしろキャベツやダイコンなどの野菜でもそれぞれに命が在るのです。
人は動物以外の植物の命をいただいているのです。
幸いな?事に植物は動物のように人が煮たり焼いたりしても何の動きもしません。何も言いません。
しかし牛豚などの家畜を「屠殺」する時にはそれ相当...の動きを見せます。これは海の動物である魚の場合も同じです。
鮮魚などと呼ばれている魚たちは人間が大きな網によって掬い獲られた時にほとんどは死にたえています。
それでも活魚用にと、生け捕りにする場合があります。
そうした魚でも最終的には人の前でピチピチ跳ねながら包丁で切り裂かれ裁かれてしまいます。
シラスの踊り食いとか殻ごと焼かれる活きアワビの姿焼きなどのように、目の前で生きていた動物の命をいただいている事でも「いただきます」の意味が理解できるのではないでしょうか?
このような食事前の挨拶を、ある幼稚園児に教えてあげたら、保護者の父親から抗議を受けたというハナシがあります。
どういう抗議かと言うと「いただきます」という挨拶は特定の宗教的な用語なので信教の自由に反するというのだそうです。
たしかに「いただきます」という挨拶は仏教の「殺生」をするな、という理念から産まれた言葉だと聞いた事があります。
1神教のキリスト教では神様への感謝の祈りの言葉を言うそうです。
仏教では出来るだけ命の「殺生」をしてはならないのです。
でも生きて行くために必要な最低限の植物の命はいただかないといけません。
なのでの「いただきます」という挨拶は「ことわり」の挨拶なのです。
八百万(やおよろず)の神と1神教とでは明らかに考え方が違います。
「アラーは偉大なり」と人間を殺すテロ・・・
死んで永遠の命を授かる、死んで永遠の霊魂になる...。
人は生きていてこそ神の偉大さを感じられるのであり永遠の命や霊魂の存在を信じられるのです。
人の死後の世界の事を云々する人がいますが、一度きりの命が絶えた後の事は誰にも判らないのです。
分かったような気になって色々に言うのがコダワリであり、宗教なのだと思います。
命をつないでいくための「食は」非常に大事です。来年も「歳神様」と共に、色々な命をありがたくいただきましょう。
めでたい海老やアワビなどのご馳走いっぱいのおせち料理はいかが!?
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