雪 立ち木 伐採
↑写真1. ↑ 写真2.
写真1.2.はビフォア、アフターの途中写真ですが、
何の前後なのか上の写真だけでは全く分かりません。
真実を移すのが写真なのです。
写真は写り込んだ映像そのものは真実ではあります。
だから写真なのです。
でも注釈、解説が無いと分からない写真画像というのが在ります。
特に風景写真の場合はそうだと思います。
上の写真などはそのいい例だと思います。
解説しても判らない画像もあります、上の場合は
どうでしょうか?
文章で解説してみます。
写真2.は現在丘陵地から見下ろした田んぼと遠くに山が見えます。
写真1.はほぼ同じ位置から撮ったモノですが直径50㎝くらいの立ち木(杉)が
3本在った時、チェーンソー伐倒前の画像です。
太い杉の立ち木が3本ある時はカメラを構えていた場所では写真2.のような風景は
見えませんでした。
つまり、写真2.は杉の立ち木3本全てを伐倒した後の画像です。
写り込んでいる遠景でほぼ同じ位置で撮っているのが分ると思います。
なので、写真1.はビフォア(前)、写真2.はアフター(後)写真なのです。
凍結 降雪
雪グニの雪が本格的になり始めました。
雪国でも生活道路が車で移動できなくなるほどだとこまります。
降雪時に心配なのが道路凍結です。
上の写真は先日紹介したのと同じものです。
事故を起こすと色々な人の時間が取られます。
何事もない車輛の移動だったら一人で充分ですったら
上の写真のような単独事故でも二台の車が対応しています。
この事故は写真で見える
橋の欄干のように道路側にガードレールが
あったら田んぼにハマるような事にはならなかったかもしれません。
その代わり車の側面をぶつけるなどして、
ガードレールや車の側面の板金部がへこむ、
というような物が壊れるという、物損事故という事に成ったかも知れません。
自動車事故の補償保険の言葉でいえば
「物損事故」にならなくて良かったと言えるのでしょうか?
車のスピードがもう少し早かったら
車丸ごと田んぼに落ちて横転し、ケガをする事も考えられます。
モノは考えよう一つ、と言われます。
事故の結果、は結果です。
○○だったら、○○であれば・・・という事は仮のハナシです。
次の万一の備え、とした考え方にとどめるしかありません。
つまり「反省」ですが・・・。
あ^~~~良かったと思いましょうか...。
「ただの反省なら猿でも出来る」・・・なんて言わないで下さい。
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事故
事故というのを好きで起こす人は相当な「悪」です。
保険金目当てとか・・・の。
普通だと予測外の事で起きてしまうのです。
予測できない事なので意外というか変な形になる事があるモノです。
上記写真の場合は「軽トラ」が後輪が田んぼにハマっている図ですが。
近年よくあるブレーキとアクセルの「踏み違い」で
バックしようとして田んぼてにハマった、というような事では無いようです。
「軽トラ」は片輪だと大人、数人で持ち上げられるほど軽いので2トンユニック車での
クレーンでも引っ張り上げる事が出来たようです。
社名の入ったユニック車なのでレッカー専用のプロのクルマでは無さそうです。仕事仲間とか知り合いの人の所有車輛と考えられます。
そうしたコネを持っている人はこういう事故の時は助かりますね。
コネ
コネとは「つながり」「関係」と言う意味です。
日本語のような感じがする言葉ですがコネクションという英語の略語なのです。
こうした事故の場合は任意自動車保険に入っていれば保険会社の無料でレッカー車移動サービスが受けられます。個人のコネで処理するのもいいですが、後でお礼をするなどけっこう面倒です。保険会社へ頼んだ方がいいと思います。
レッカー移動のような事故対応は近年の自動車保険では時期保険金負担額が大きく増える事は無いようです。
ネット加入の保険でも充分に対応してくれる保険会社は少なくないようです。
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本 コネ 人脈 ツテ
テレビの世界で「二世タレント」の事がよく話題になっています。
親が有名タレントだという事で売れるまでに幼少のころに何らかの抵抗があったという二世タレントの人はけっこういるようです。
(二世とは二代目、と同じような言葉ですが...)
二代目襲名・・・などと大袈裟な言葉で言うと、あの反社会的組織と言われている暴力団の中でも山口組などの○○代目襲名と言うのが話題になります。
反社会的組織と言われながらも、何代も受け継ぐにはそれなりに大きなメリットがあるのでしょう...。
政治家の場合の「看板」と言われるのと似ているのかも知れません。
「カエルの子はカエル」と言われるように血筋というか血統という遺伝子のチカラには侮れないモノが在るようです。
政治家としての資質なのには好き嫌いはあっても今を時めく日本の総理大臣の「阿部ちゃん」などもそうした「看板」があっての政治家になっている一人だと思います。
しかし、そうは言っても分不相応な役割を強いられた人も中には居るようです。
二世、三世と受け継がれた人の中には「三代目の穀潰し」...と呼ばれる人もいます。
二代目が創業者と同じような業績を上げるには同じような苦労をする、とも言われています。
それが三代も続くと商売は安定するのが普通だと言われています。
それなのに「三代目の穀潰し」と呼ばれる人がいるというのは、ご先祖様の「富」は三代は続かない、という例えでは無いのです。
代々受け継いだ事の中にはいわゆる「老舗」と言うのがあります。店舗などの「老舗」の場合は商取引などでの信用、実績などが数十年以上の長きにわたって世間から評価支持され続いている事を裏付けています。
それなのに「三代目の穀潰し」という言葉があるのは初代から受け継いだ2代目の苦労を台無しにする事なのでしょう・・・。
台無しとは、先祖先代が築き上げた信用と財産を使い果たすような例えの事だそうです。
そんなもったいない事をする意外な三代目という人がいるのだそうです。
タレントの場合は知名度が高すぎたゆえの「看板」の重さがあるために
二世たちに苦労があるのかも知れません。
無名の市民には理解できない苦労だと思います。
世間にはミーハーな人が圧倒的に多いので「あいつはテレビでよく見る誰それの息子娘」・・・とかで何をするにもその親の事が引き合いに出されることで世間の目が気になる事もあるのでしょうね。
しかし、こうした親の知名度は一方では本人のタレント活動の売り込みがやりやすいという、その世界では「営業」に有利という側面もあるはずです。
俳優の知名度と言えば何代目なのかというくらいの知名度がある事では歌舞伎の世界はタレントの世界では老舗に当たるかも知れません。
歌舞伎の世界は江戸時代からの世襲がほとんどなので、幼少時に本人さえ技量の取得に努力する気があれば売り込む必要がほとんどないと思われます。
タレントの二世であるが故の苦労とは「老舗」のような信用ある「看板」では無いからとも考えられます。
そうは言っても「老舗」と言えども、商売と言うのは大小を問わず代々受け継ぎ維持していくのはそれなりに大変だそうです。
何もしないでも定期的な収入があるという有名な著作権者の子息だと財産を守る苦労があるのかも知れません。
営業をしている老舗の会社、商店などはそれなりの看板で商取引が続いているので特別な売り込みをしなくても売り上げ収入に大きな変動がないという事はあるようです。
かつての「山一証券」のような老舗でも倒産する事があったというのは三代目以降の経営者の能力の問題ではあるが、時代に合った商法へ発展転換をさせられなかった事にも大きな原因があったとも言われています。
そうした事の例えで言われる職業にタクシー稼業があります。
タクシーの原型は日本で言えば江戸時代の「籠担ぎ」でした。世間に乗用自動車が無かった時代の商売です。
乗用車で人を運ばれては仕事がなくなるからタクシー会社を作るのは認められない、反対だ、などと言う理屈は通りません。
おまんまの食い上げになるのは時代の変化で変わって来るものなのです。
資本主義経済とか市場経済というのは競争原理が働く事で経済の仕組みが変化していきます。
競争に負けないために日々活動しているのでライバルが多いほど変化は激しくなります。
そうした競争のために現代は速い速度で変わっています。
「駕籠かき」より、いくら乗用車が便利だと言っても乗用車で客を運ぶというタクシー会社の営業、運営は初めからうまくいったわけでは無かったそうです。
乗用料金の問題や知名度、その利便性などが世間に知られていなかった事もありました。
タクシー代という交通費の負担が気に成らない大きな会社、大きい組織などへの売り込み営業努力はたいへんだったそうです。
その営業売り込み、PRで有利に働くのが「コネ」と言うヤツです。人脈ともいいますか。
こうしたコネを使って営業を続けるための手っ取り早いのが友人、知人、親戚縁者と言うヤツです。
しかし、そうしたコネは一時的なモノだと言われます。
商売というのは長く続かないと意味がありません。
「友人」「知人」「親戚」へのお付き合い営業の代表的な例に「生命保険」の営業職などがあります。
営業職と言うのはそれぞれの職業が抱えた商品を対外的に売り込む職業なのですが、生命保険の商品は日常生活では無ければ困る、という商品ではありません。
なので「お付き合い」での加入が多いと言われているのです。
人付き合いが上手くない人の「営業」だと、いわゆる親戚縁者優先になってしまいます。「親戚縁者」以外のコネが無いからです。
つまり、営業とは特定の商品を売り込む事なのですが、売り込む相手が無い事には営業は始まりません。
売り込む相手がいないから「親戚縁者」頼みになってしまうのだとも言われています。
「親戚縁者」というコネは、極めて限定的なのです。
限定的、という事は継続性(続いていかない)が無い、コネが無いという事なのです。
さてならば、どうしたらその新たな「コネ」が作れるのでしょうか?
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文章変換「屠殺」...。命と宗教。
上の写真は俗に言う家蜘蛛、家ぐもです。写真はアップで撮ってあるので大きい蜘蛛のように見えます。
脚の長さはかなりのモノです。脚が長いわりに胴体が小さいのが特徴だと思います。
本体胴体の大きさは直径5㍉にも満たないくらいなのですが脚が長いので動くと目立ちます。
この蜘蛛の生態はよく分かりません。餌を捕獲したところを目撃した事もありません。
家の中に限らず蜘蛛があの糸を張り巡らせている所を見ると飛んで来た昆虫(蛾とか蠅とか)を捕えてると考えられます。
つまり肉食という事のようですが...。
ライオンなどの哺乳類に限らず昆虫にも肉食系と草食系があるんですね。
肉食系女子とか草食系男子などと近年の男女の性向を表す言葉の中にある「肉食系」と言う場合の肉食文化は西欧文化の影響だと言われています。
そんな肉食系のグルメでよく言われる言葉に焼肉には人の気持ちに幸せ感を与える最高の食べ物だという人がいます。
肉食をする事は人の気持ちを最高の幸福感にさせる、、、という栄養学的見識ってどこから来るのでしょうか?。
人が日常的に肉食をするには家畜を「業」にする人がいないとそうそう普通に食べる事は出来ません。
家畜とはどんな動物でしょうか?
牛、豚,鶏がメインの動物ですが人は色々な動物を飼っています。
特に鶏に限って言うと日本ではご存知の通りのケージ飼いが当たり前だと思います。放し飼いが無いわけではないが全体で見ると放し飼いは少数だという事です。
いずれにしても鶏を飼う事は朝に夕なに鶏たちに餌を与えて立派なたまごを産んでもらうために飼われているのが多いようです。
ところがブロイラーと言われる鶏たちはケージ飼いにしろ、放し飼いにしろ人がその鶏たちの肉を食べるために育てています。
この場合鶏を引き合いに出していますが飼い方は違ってもそれらの肉を食べるための飼育です。「屠殺」が最終目的なのです。
お肉を市販するためにこれらの動物を解体します。その行為を「トサツ」という言葉で表します。その「トサツ」をキーボードで叩いてもその漢字が表示されません。
日本語変換のプログラマー達がその言葉を知らないのではないかと考えてしまいます。
気になるので色々調べて見ると在りました。屠る(ほふる)という読みでの漢字なようです。
屠る(ほふる)と殺を合わせてトサツと読むはずですが漢字には変換されません。
仕方がないので屠る、殺と入力した後で「る」と「、」を削除すると屠殺..トサツという漢字が出来上がります。
日本語のプログラマーたちがそのような事を知らないとは思えません。
なのにどうしてこういう事になっているのでしょうか?
本来草食系の和食文化の伝統を受け継いだ人達には肉食の象徴である「屠殺」に対して潜在的な抵抗を感じているのではないかと思えるのです。
戦後70年の日本では色々な面で日本文化が敬遠されてきました。
これは戦後に限らず明治クーデター政権以来の日本文化の傾向とも思えます。
「散切りアタマを叩いて見れば文明開化の音がする」などと詠われるなど明治以前には文明が無かったかのように言われるのはどうかと思います。
ハナシが逸れてしまいました。
家畜を人が食べるために殺す行為「屠殺」という表現があります。鳥インフルエンザが流行し始めると「殺」処分という呼び方がマスコミで報じられます。
「殺処分」と「屠殺」とは全く意味が違います。「殺」処分の場合は皆殺し、なのです。処分なので食用には出来ません、しません。
かつて「狂牛病」騒動の時にもこうした飼育していた牛たちを皆殺しにする「殺」処分をしていました。
仮に人間がそうした病気になっても「殺」処分は絶対しないのです。家畜だからこその「殺」処分でした。
人が人を殺せば殺人という事になり重大な犯罪です。
国家と国家の争いで起きる殺人に「戦争」があります。この場合は犯罪にはなりません。他国の人間を殺しても国家の名誉になるのです。そうした戦争で命を落とし犬死させられても英霊などとおだてられるだけなのです。
犬死させられたとは言っても、一つきりの日本の兵士の事は英霊などと祀って鎮魂の意思を曲がりなりにも表しています(戦争神社と揶揄される靖国神社などはその代表です)
しかし、中国などの犠牲者たちへの鎮魂の祈りに政治家が出かけたというハナシは聞いた事がありません。多くの犠牲者を生み出した事を認めて謝罪をしていてもその犠牲者の方々への鎮魂の祈りをしていないのです。
鎮魂の祈りをしないという事は数百万という犠牲者を生み出した事実を認めていない事と同じなのだと思います。だから何度口先だけの謝罪をしても中国や韓国は許さないのだと思います。
人が飼育している家畜を殺しても問題にする人はいません(普通は...)。自然の海洋に棲んでいる鯨を獲るのは野生動物保護に反する行為だと非難する人間グループがいます。
日本には食事の時のあいさつに「いただきます」という言葉があります。
アメリカなどでは「神様に感謝します、アーメン」などという挨拶の言葉があるようですが。
動物は自分以外の生き物を食べ続けていないと自分が生きられません。つまり、他の生き物の命を「いただいて」いるのです。
稲のタネになるお米にしろキャベツやダイコンなどの野菜でもそれぞれに命が在るのです。
人は動物以外の植物の命をいただいているのです。
幸いな?事に植物は動物のように人が煮たり焼いたりしても何の動きもしません。何も言いません。
しかし牛豚などの家畜を「屠殺」する時にはそれ相当...の動きを見せます。これは海の動物である魚の場合も同じです。
鮮魚などと呼ばれている魚たちは人間が大きな網によって掬い獲られた時にほとんどは死にたえています。
それでも活魚用にと、生け捕りにする場合があります。
そうした魚でも最終的には人の前でピチピチ跳ねながら包丁で切り裂かれ裁かれてしまいます。
シラスの踊り食いとか殻ごと焼かれる活きアワビの姿焼きなどのように、目の前で生きていた動物の命をいただいている事でも「いただきます」の意味が理解できるのではないでしょうか?
このような食事前の挨拶を、ある幼稚園児に教えてあげたら、保護者の父親から抗議を受けたというハナシがあります。
どういう抗議かと言うと「いただきます」という挨拶は特定の宗教的な用語なので信教の自由に反するというのだそうです。
たしかに「いただきます」という挨拶は仏教の「殺生」をするな、という理念から産まれた言葉だと聞いた事があります。
1神教のキリスト教では神様への感謝の祈りの言葉を言うそうです。
仏教では出来るだけ命の「殺生」をしてはならないのです。
でも生きて行くために必要な最低限の植物の命はいただかないといけません。
なのでの「いただきます」という挨拶は「ことわり」の挨拶なのです。
八百万(やおよろず)の神と1神教とでは明らかに考え方が違います。
「アラーは偉大なり」と人間を殺すテロ・・・
死んで永遠の命を授かる、死んで永遠の霊魂になる...。
人は生きていてこそ神の偉大さを感じられるのであり永遠の命や霊魂の存在を信じられるのです。
人の死後の世界の事を云々する人がいますが、一度きりの命が絶えた後の事は誰にも判らないのです。
分かったような気になって色々に言うのがコダワリであり、宗教なのだと思います。
命をつないでいくための「食は」非常に大事です。来年も「歳神様」と共に、色々な命をありがたくいただきましょう。
めでたい海老やアワビなどのご馳走いっぱいのおせち料理はいかが!?
[rakuten:2-itamae:10000831:detail]
苔 苔玉 苔盆栽 東京
むかし、鉄鋼芸術というか、鋼鉄資材を細工した造形をウリにしてTV.で人気者だった方がいました。
名前はすっかり忘れてしまいましたが芸術の・・・というとなぜか思い出します。
芸術といえば、
「芸術は爆発だ」と唱えていた人の芸術.作風.センスはオイラは好きではなかったがなぜか気になる言葉でした。
↑写真① ↑写真②
そんなこんなでオイラのゲージツは上掲写真の苔玉作品コレクションの一つです。
芸術の秋とはなんぞや?
雑誌の中で使われた言葉が定着している言葉なのだそうです。
春夏秋冬ある季節の中でなぜ秋なのかは定かではないが
日本の長い夏…などと言われる、暑さが落ち着き、涼風が吹いて来る季節に色々と
芸事やその鑑賞などに精をだしやすくなるのが人情なようで秋になっているのだとか。
芸事というと俳句とか絵画鑑賞のような高尚な感じがします。
しかし、何も高尚な趣味でなくても好きな事に集中しやすい時期だという事の様なので難しく考えないで気軽に始めましょうか。
上掲写真はあるテレビ番組で鉢植えの植物をはチカラ外して苔で包んで置くのも面白いですよ、というのが紹介されていました。生噛りの知識でも、いきなり始める悪いタチなのでさっそくの作品が半年前でした。
30点ほどの制作作品だが、なにせ相手は苔と植木という植物、生き物です。苔の性質、植物の生態、土壌など条件に合っていなければ育ちません。
ひと月と持たず枯れてしまったのが多く在りました。何より僕が気になったのが苔の性質でした。苔は湿り気のある環境が好きなようだが水やりを怠って乾燥しても枯れてしまうのではなく、休眠してしまうという性質があるとかでやりやすいかと思いつきました。
結果そう単純では無さそうです。苔と植木、植栽植物では性質が違います。苔だけの盆栽だとあまり問題はなさそうです。
さて本題の苔について調べて見ました。盆栽として玉状に土を包むには這苔と言うのが一番造り易いという事と、僕の近所にはその這苔がいっぱいある。
とりあえずこちらから手始めにととりかかって仕上げた作品のうち半年経ってそこそこ育ってくれたのをピックアップした中の2点が上掲写真①と②です。
ここまでで分かって来た事で、一つ二つを紹介したいと思います。
苔は湿気を好むようですが、日当たりがいい方がいいようです。よく半日陰という言い方がありますが、半日陰の半とは半分と言う意味では無さそうです。
朝早くから夕方までカンカン照りの日当たりでは水分が枯れてしまうので良くない、と言う意味の要です。
日当たりを好まないという事では無く周りに十分な湿気がある所だと少々日当たりが悪くてもいい、と言う意味での半日蔭なようです。
つまり日当たりを好まないのではなく、極端に乾燥するような日当たりを好まない、という事ですね。
植物で日当たり、太陽光をあまり必要としない種類があったとしてもそれは例外なのです。苔は例外植物では無いようです。普通に日当たりが在る方がいいようですよ。
そうは言っても湿気をより好む、と言う意味では水やりの管理は普通の盆栽より難しいのかも知れません。
私が半年の経験で少し分かった事は盆栽の盆が文字通りの盆状である必要がある、という事でした。普通の鉢植えのようにたっぷりの水やりをしても鉢底から水が排水されてしまう盆栽は苔には向いていないように思います。
お盆の底面にひたひたより少ない水分が少なからず少なからず・・・(多からずではありません)少なからず、々、なのです。微妙な水分を必要とするようです。
お盆には水分の受け皿としての機能が無いといけないように思われます。
そして苔全体に水分を供給するためには水分を霧吹きしてやるのがいいようです。充分な霧吹きの結果したたり落ちた水分がお盆の底面にほんの少し残っていられるようにしてあげたほうが苔は喜ぶようです。
そんな水やりでは面倒なので苔玉を載せて置くお盆は受け皿としての縁が出来るだけ平らなお盆にしてあげた方が水を「多からず少なからず」に保てるようです。
つまり受け皿がごく浅ければ水のやり過ぎにならない、という事にもなると思います。多く水をやり過ぎるとお盆からあふれ出します。
盆鉢を置いたところが水が溢れては困る所だと水やりがより慎重なるので根腐れの様なことが起きないのです。
しかし、残念な事にそうした水管理では一緒に植えこんだ植物(上の写真の場合、写真①はモミジ、写真①はスミレですが)は水分が多い方がいいので多からず少なからず、という水管理のバランスは難しいかも知れません。
だから面白いとも言えるように思います。
なにせ比較的新しいジャンルの盆栽らしいので経験豊富な先輩方の先例が見つけられないので自分の目と手でやってみて確かめるしかないようです。
玉状にするにしても苔だけの植栽、でモミジなどとの水やりの相性のいい組み合わせを考えるのも楽しみです。
今年の冬を越したら苔の種類を増やし相性のいい植物探しなど、次なる挑戦が待っています。
苔の水やりにピッタリ、蓄圧式だから霧吹きが楽らく・・・
マルハチ産業ダリアオートマチックスプレー 蓄圧式/320cc
↑元気だば・・・あちこちで稔りの秋...。
上の写真は「田んぼ」の端になぜかポツンと、しっかりした株が育っている稲を撮ったモノすがお分かりいただけますか?
こうした半端な稲株は時々、あちこちの田んぼで見かけます。
何故、半端と呼ぶの...?
私はこの稲株の事を「はぐれ稲」と呼んでいますが...。
稲の群れがすぐそばに在るので‘はぐれ‘と呼ぶのは少し違うようにも思いますが
田植え機で、植えたはずのない列に立派な稲株が育っているのです。
こういうのは、時々違う田んぼでも見かけます。偶然、などとも言いますが、偶然とは説明できない事柄の説明のための言葉のようですが。そうした偶然をいつも、面白いと思うのです。
偶然と言えば、この「はてなブログ」もネットサーフィンをしていて偶然見つけたサイトです。
数ある無料ブログのSNS.ですが、いろいろ試して記事を書きこんでいました。長い間、(余程ヘタな記事だったようですが、10年も継続しています)記事を書きこんでいたサイトへの一般ユーザーのアクセスが全く分からない状態に不満に感じるようになっていました。
ある人がブログを毎日更新出来るようになったら
そのブログで何かを売らないと「もったいない」と言うようなことを
書いていました。
そうかも知んない、とは思ったりしますが
何を売ればいいのか皆目見当がつきません。
しかも直接記事内での売り込みができる無料サイトは無いのです。
その点、アフリエイトは売り込むのではなく は自分が気に入ったものを紹介するだけなので何かが売れて報酬が得られる、というのがいいと思います。
しかし、それは虚業だと非難する友人がいます。
なぜ虚業なのでしょうか?
実業の反対の事を虚業と言いますね?
つまり、ホントは何にも売っていないのに
売れたからと言って収入が勝手に入る仕組みになっているのが
ウソの仕事→虚業と言う事になると言うのです。
虚業というか、詐欺まがいの販売法にマルチ商法と言うのがあります。
言い換えればマルチ商法は`ねずみ講`の様なものですが...。
そっくりな虚業だと友人は言うのです。
私が「アフリエイト」に何かしらの抵抗を覚えるのは
そうした経済の仕組みに在るのかも知れません。
しかしネット商法にもそのマルチと似た構造が在るように思います。ねずみ講のように無限大にひろがるような仕組みがあるように感じています。
何でもいい、そうした収益に繋げられないブログではもったいないという人がいるのでです。
もったいない、と言っても、書いた記事へのアクセスが見え無い事には始まりません。
専門的な知識が無くても、どれだけのユーザーが自分のブログにアクセスしているかが分かりやすいSNS.が「はてなブログ」なのだそうです。
アクセス解析と言うヤツですね。
多くのSNS.会社の「アクセス解析」はウソというより色々なテクニックで水増し表示されるような「アクセス解析」になっているそうです。
人がどう観ようが受け取ろうが関係ない、と思える人はいいのです。
しかし、せっかくの公開記事なのに何の評価表示もされないのはつまらない、と思います。
そんなこんなでユーザー検索されるような記事が書けるようになりたい、というのは人情だと思います。
SEO.とかでネット検索でヒットされやすいSNS.と言うのが在るらしいというので辿り着いたのがこの「はてなブログ」です。
ネット検索で上位表示された記事になるにはどのくらいの期間がかかるでしょうか?
そんな輩が始めた「アフリエイト」広告↓↓↓